昭和41年12月16日 朝の御理解
先日の親教会での、総代会に出席させて貰って、岸先生が後の御直会になった時に、一杯機嫌で話してあることを、聞かせて貰ってから、感じたことですけれども。去年去年の春だったでしょうか、あちらの奥さんが亡くなられましたのは、で今後のあちらの記念祭の様々な盛大であった模様を、家内にいわゆる霊様に報告した。本当にあの霊も喜んでくれたことであろう。また自分も嬉しかった。もうあれだけのことが為されるためには。二年前からもちろん、計画されましてね、もう特に今度はもう岸先生が、一番御用頂かれただろうと思います。
その日々、御用させて頂く、しかも親子で御用されましたが、その模様を、毎晩、帰って御祈念の時に霊様にその事を報告する。それがもう本当にその楽しみであった。家内の霊様も喜んでくれておる。自分も心安らかであると。そんな話を聞かせて頂きながら思ったんですけども。本当にその、死んでしまうと、それを呼ぶようになる。これは親でもそうですよね。子供でもそうです。
霊様になると、はあその拍手したり、鐘を叩いたりしてから拝む。まぁ岸先生の場合なんかは、そんなことはなかったろうけれども。もう生きとる間は、夫婦喧嘩ばっかりしとる者でもです。死ぬると拝む。それは悪いことではない、有難いことなんですけれども。信心させて頂く者は、お互い生きて居る内にです、私は拝み合える様にならなきゃいけないと云うことなんです。死んで拝んだつが、つまらんのじゃないけれど。
死ぬる前に、生きてる間に、お互いが報告し合い、話合い、親と子が、夫婦が、兄弟が、本当におかげでおかげでとこう拝み合うと云う、そういう私は、おかげを頂かなければならない。死んでから拝んだっちゃつまらんと云う訳ではないですけれども、私は、それの方が有難いと思うですね。どうでしょうか。家内を拝み、主人を拝み、子供を拝み、親を拝む。生きとる間、生のある間に、ひとつ、拝ませて頂けれる私に、又拝まれる私になりたいものだとこう思うです。
それが私は信心だと思うんですけどね。ところがその生きとる間は、つまらんとこばっかりが見えて来る。足りない所ばかりが見えて来る。それが不足になり、不平になる。そういう私は、生活からです。信心生活とはそういう様なものだと。人間ですから、つまらんところもありゃ、足りないところもあるのですけれども、そこをカバーし合い。そしてその、良いところを、いよいよ拝んで行こうとこう思う。
もう悪いところをこう見るようになったら、もう限りが無い。その悪いとこだけが、いわゆるクローズアップされてですね、もう悪いものばぁっかりが見えて来るようになる。それとは今度は反対に、もうその、良いもの良いものをとこう見せて頂いて居りますとですたい、素晴らしいなぁ、素晴らしいなぁという事になる。昨日、善導寺の原さんがお届けしておられた。ほんとにあの親教会のその素晴らしさと云う事を。今までは、親教会に対する、その素晴らしさといった様なものを、そう感じなかった。
ところが最近は、それが感じられる。第一あちらの勝手に行ったら素晴らしい。もうほんとにご信心を頂いて居るなら、何処の家庭でも、炊事場が、これ位に整然として居らなければならない。それこそ野菜の切れ端一つでもお粗末にしてはない。もう見事なことである。ほんとに見習わなければなりませんと言うて、昨日その、原さんがお届けしておられます様にですね。今迄はそうではない。反対の例えば思いをしよった所にでも、人にでもです。良いものが見えてくる様になる。
それはその侭、だから原さんの心の中に、有難いものが育って行きよるからだと、こう思うのです。有難い時には、良いものが良いものとして、ほんとに素直に見えれるのです。ほんとに皆さん、その死んでから拝む。はあもう死んでから、もうほんと家内が拝む。死んだ主人を毎晩、朝晩拝む。死んでから、拝んだっちゃつまらんじゃないけどもです、死ぬる前に、生きてる間に、お互いが拝み合える様な、生活させて頂くと言うことが、信心なんです。
そこで私は思うですね、信心させて頂いて、神様が有難い。神様は尊いんだ。神様を大事にすると云うけれどもです、神様のなされ方、神様のあられ方、私共の上に現れてきて下さるところの働きと云うものをです、私は尊ばずして、拝まずして、神様を尊んで居るとは思えないと思う。私共の上に様々な問題があります。それをまあ難儀と申します。人間の難儀と、その難儀そのものをです、神様のお働きの中に有るのだと云うことです。如何に神様を拍手して拝んでも、それこそ祀り上げましてもです。
神様の働きそのものを大事に尊ばずして、私は神様を大事にして居るとは言えないと思う。神様をいよいよ尊ぶ人、神様を愈々大事にしてる人、それはお道の信心させて頂く者でですよ、お道の信心させて頂いて分かれば分かる程、天地の親神様の心が分かれば分かる程です。私の例えば周辺に起きて来るもの、こりゃ私を中心にして私の周辺に起きて来る、善しにつけ悪しにつけ、それは一切神様のお働きなのだから。
それを実意丁寧に合掌して受けて行こうと云う私は、あり方こそが、いよいよ神様を尊ばして貰う、神様を有難いと思わして頂くと云う生活とはそういう事だとこう思う。自分の都合の良い事は有難い。都合の悪いことはもうほんとに困ったもんだとして、それを向こうの方へ押しやろうとする。その事をです、どういう神様の御神意があるのか、その御神意を対峙させて貰うてその事を合掌して受けて行けれる。
御神意が分かりゃ、はあ神様が、こうして私共に分からして下さるんだと云うことになってくるのです。あの、漫才なんかを見ますと、いわゆるその、コンビと。程の大きいのと小さいのと、それでコンビだ。太いのと痩せたの、まん丸いのと四角いの。もう大概そうですね。ところが昨日私、私は漫才が好きですから、漫才の時間だけ見るんですよね。昨日はですね、もう二人とも、程がこまくてですね、そして二人とももう、横の方が張ってる様な女の人達が二人でしたもん。(たか)と言う漫才でしたけれど。
あんなのは珍しいですたい。二人とも、こう肥えとる。どんぶり飯が両方ながら。それでもコンビなんです。いわゆる、似た者夫婦と言うけれども、似た者夫婦そういうコンビなんです。かと言うてですね、三角のと、四角のと。丸いのと四角いのと。白いとと赤いとと。大きいのと小さいのと。と言う様にですね、それが何とも言えん一つのコンビとしてピッタリ合って行くようなですね。
( )という漫才なんかは、そうでしょうが。相手の悪口を言いながら、それでいて、何とはなし、ぴったり行くでしょうが。喧嘩しながらも、やはりコンビなのだ。そういう意味でですね、私共の上にはです。もう、あ奴とは合わんとこう言う。けれどもです、どちらかが信心があればですね、そうと思うて行くようになる。そこに私は、そのコンビが生れるのです。私共は一切の人、一切の事柄がですね、そうしたピッタリと合うていけれると云う生活を、私は信心生活だと思う。
ほんとに拝んでいく生活だと。又は拝み合えていく生活だと。今度の御造営の事があってあの、委員長の秋永先生と、高橋さんは、もう影と形の様に何処にもま、付いて回って御用しておられます。そして片一方が赤と言えば、片一方は必ず白と言うんです。好みが違う。あれが赤ち言うたけん、俺は白と言わんならんという様な意地悪い事じゃない。それでいて、何とも言えん、やはり、その二人は何処へ、今度は京都にも、二人一緒に行かれましたけれど。
他の皆さんも行ったですけれど、一緒に行かれましたけれども、それでいて丁度良いものが生まれて行く。お前は、どうして俺が言うこつに、いちいちケチをつけんならんかち言うぐらいにその、あるんです。それでいて、ほんなら、ござるのやなぁ、ああした素晴らしい御造営が成就していきよるのです。片一方が右と言やあ、はあほんなら右が良いですねと言うたら、あれは出来て行かんのです。
あんなに素晴らしい、それこそ誰が見ても、神経の行き届いた、沢山の人の心が、あの今度のお広前には、心を込められてあると、心を使うてあると。誰が見てもそれを感じられるような御広前が成就になって行きよる。それも私は、そのコンビが良いからだと思うんです。して見るとですね、自分の思う様になることだけがおかげではないと云う事が分かって参ります。
自分の思う様にならないこと、その事も合掌していくと云う信心が、それをその、只、分からんなりに合掌するのじゃなくて、心からそこが分からして頂いて。例えば、ほんなら子供の中に言うことを聞かん子が居ると致しましょうか。ま、どうして言うことを聞かんじゃろうか。けどもあの人が言うことを聞かんおかげでです、おかげで、私の信心が出けますと云う時にです、もうそれは、言うことを聞かん子供と、いわばピッタリとしておる事なのです。
家の主人ばかりは、家の家内ばかりはと、喧嘩の絶え間がなかったけれども、信心させて頂くようにならせて頂いたら、主人がああであるおかげで、家内がああであるおかげで、私の信心が進みます。と、家内なら家内、主人なら主人のその事を拝まして頂くようになる。そこから相手もおかげ頂いて拝むようになってくる。そこから、いわゆるほんとの意味での拝み合の生活と云うものがある。
私共はほんとに一切の事柄、一切の人、自分の周囲の縁有る限りの人、物、事柄、難儀と云った様なものをです。まともから、その事の御神意を分からせて貰い、そしてその事を拝まして頂けれる。相手が三角であろうが四角であろうが。もう一切がコンビであると云う自覚に立ってです、そのコンビを生かして行くところに、信心生活が私はあると思うんです。お互い、死んだ後に、やっぱあげな事のあったおかげで、云うならばです、雨降って地固まると云った様な事を申しますけれどもです。
おかげで地が固まったと後で言うたんじゃもうつまらんて。つまらんことはなかろうけれどもね、後から分かると云う事は有難いんだけれどもです。それはその雨が降っておる時に、その雨を有難いと合掌出来ると云う、それが信心なんです。子供が病気したと。もうほんとに苦しい事だったけれども、そん子供の病気したおかげでですもう一生懸命。昨日も昨日久留米の野口つぁんが見えられてからお話しておられましたが、もうほんとに今度子供の病気の為に。
どの位自分の今迄分からなかった事を分からせて頂いたか分からんて。大変なおかげ頂いたが私だけではありません。今度のことに依って息子さん弘樹さんと言いますが、弘樹も神様の有難さが分かったろうと。こう大手術しておられますから、こうかぶりものを被ってから、こう布団をかぶせてある。痛い痛いて言うて苦しむ時にはですね、自分が手を触らなければ、何でもないけれども、壁でこうやっておおってある、その布団の上からです。生神金光大神様親先生、生神金光大神様親先生と言うてですね、
(誰よりも私は休みもせん。)痛い時は、お母さんお母さんとこう言う。さすってくれ、別に身体に当たる訳でもないけれどもです、そうしておかげを頂いてきた。今度いくら分からん息子でもこの事を、今度は神様の有難さが分かったに違いないとこう言うておられますようにです。そのおかげで、自分も信心が進みその事に依って、息子も信心が分かり。ですからもうその事がです、その病気その事が有難いと合掌し。
あの病気もやっぱおかげじゃったと、後で言うのじゃなくてです、そりゃ後で云う事も有難い。けどももうその病気その事を(根源でならなきゃ駄目だと)私は思う。この病気のおかげで、私が分からして貰います。この病気のおかげで、信心が分からなかった子供が分からして頂きますというあり方。一切がそうなんです。そこにほんとの意味合での拝み合の生活というのがある。私共は、後になってから、ああおかげじゃったと言うもんではもう遅かと。
死んでしまうてから、いくら家内を拝うたっちゃ、主人を拝うたっちゃです、そりゃ霊様は喜んで下さる、下さりよるじゃろうと云うだけでしょう。それを、なぜ、生きとる間に拝まなかったであろうかと。なぜ、生きとる間に、親父が、兄弟が、夫婦がです、いわば、敵と思うておった様な人達でも、なぜ、はじめから拝まなかっただろうかということになってくるんです。死んでから拝んだっちゃ良いけれども、死ぬる前から、一つ、拝ませて頂けれる稽古が、信心の稽古だとこう思う。
いや、それが信心だと思う。それが信心生活だと思う。そういう心でです、御造営成就ということを、お互い祈らせて貰う。そう思う有難いこころ、一切を拝めれる、そういう信心生活運動と言うのが、この十三日を境に言われておりますけれども。そういう一切を拝めれる有難い心を以てです。どうぞ神様の心に叶いますところの御造営が成就になりますようにと言うて、祈らせて頂いて。初めて私は、ほんとのおかげというのが頂けるのじゃなかろうかという風に感じるのです。
根性の悪い心、何もかにも拝めない心、汚い心で、どうぞ御造営成就、御造営成就と言うて祈ったって、これは、大した効果はなかろうと私は思う。本当の意味での信心生活が出来させて頂いて、その有難い心を以てです、御造営成就の事が祈れる様な運動がです、今の椛目の信心の中心であると言うことを一つ分からして頂いて、いよいよ、本気での信心生活。一切のものとコンビが出けれる私にならして頂かねばならんと思うですね。
どうぞ。